【実話】通信簿がオール1だった私でも何とかなった理由 / 母が語りかけ続けた「魔法の言葉」とは



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あなたは「オール1の通信簿」を見たことがあるだろうか? 私、P.K.サンジュンは……ある。というか、小学校2年生まで私の通知表はずっと “オール1” であった。お恥ずかしながら当時はオール1の意味もあまりわかっておらず、ただヘラヘラしながら通知表を母に手渡していたように思う。

あれから約30年──。現在ではライターとして文字にまつわる仕事をしているが、おそらくあの頃の私や周囲の人に「大丈夫、サンジュンは何とかなる。普通に仕事してるよ」と告げたところで誰も信じないハズだ。ただ1人、母を除いては──。

・オール1だった理由

なぜ小学校2年生までオール1だったか? これには明確な理由がある。私は第1子の長男であり、両親とも「小学校入学までに何を教えておくべきか?」をわかっておらず、最低限の教育を施していなかったのだ。

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例えば、小学校に入学した時点で私が書けた文字はひらがなで「さ・ん・じ・ゆ・ん」のみ。幼稚園は1日中裸足で過ごすようなネイチャー系だったため、小学校までの準備教育はほぼ受けないままに、いきなり学問が始まったのである。

文字という概念から学び始める子供と、ある程度の読み書きができるこの差は歴然。私は完全にスタートダッシュに失敗したのであった。さらにクラスで2番目に低い身長と比例するように運動神経も悪く、体育の成績もズバリ1。学問ができないだけではなく、運動もダメな子であった。

さらにさらに付け加えるならば、給食が食べられなくて週に4回くらいは放課後まで居残りをしていたし、忘れものが多かったため先生から「明日持ってくるもの」を手に書かれていたりした。振り返ると自分でも「典型的な落ちこぼれ」だったように思う。

・なぜか自信満々だった

だがしかし、私は自分のことを1度たりとも「頭が悪いのかも」「出来損ないなのかも」と疑ったことがない。もしかしたらその知能すらなかったのかもしれないが、むしろ逆に「根拠のない自信」が常に胸の内にはあった。オール1のくせに “悲観的な未来” を予期したことがないのだ。




これはひとえに、母が私に投げかけ続けた言葉にあると思う。それは「サンジュンはやればできるコ」という言葉だ。私の失敗を糧にした2人の妹はとても学校の成績が良かった。例えば妹たちが高得点のテストを母に渡すとしよう。それを横目で見ている私に母は「でもお兄ちゃんが本当は一番できるもんね」などと声をかけてくれたのだ。

・「やればできる子」

この言葉はことあるごとに母の口から発せられ、妹たちもいつの間にか「本当はお兄ちゃんが一番頭がイイ」と洗脳させられていた。もちろん一番深く洗脳させられたのは私自身で「お母さんが言ってるからそうなんだろうな」「だから大丈夫だな」と、先述の「根拠のない自信」の源になっていたのである。

小学校3年生くらいになると持ち前の明るさも徐々に発揮され始め、通知表もオール1ではなくなってきた。その後、偏差値50くらいの普ッ通ーーーの高校に進学したから「落ちこぼれ」から「標準」くらいまでには盛り返したと言ってもいいのではなかろうか。

7年前に他界した母が、当時本当に「サンジュンはやればできる子」と思っていたかはわからない。ただ、何百回、何千回と繰り返された言葉は今でも私の中に生き続け「なんとかなるでしょ……俺なら」と、今でも私を支え続けている。

執筆:P.K.サンジュン
Photo:RocketNews24.


Source: ロケットニュース24






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